生物と機械の境界

 この前、初めてホームセンターで工具を買った。その時初めて知ったことがある。ネジやボルトという部品の数々にはきちんと規格が決められていて、いわゆるオーダーメイド、特注品のようなものをいちいち作っていたわけではなかったのである。

 家具を買ったら手引き通りに作る、そんな現代社会の便利さに甘んじてきた私にとってこれは衝撃的だった。なにせ、生物における遺伝子と性質が似ていたからである。

 

 これを見ている人の目の前にはスマートフォンかパソコンが存在していると思う。それを分解して、もう一度組み立ててみてほしい。よほどの専門家でもなければこれらを組み立て直した時、そこには何故か部品がいくつか残っているか、不格好で動かないただのガラクタが残るだけだと思う。仮に動いたとして、それがいつまで続くかは時間の問題だ。もっとも、それを本気で実行した人はこの文章をもう読んではいないはずだけれども。

 では次にもう一度それを分解してみてほしい。今度は組み立て直さずに、そのままで。そこにネジやらボルトやらをいくつか私が持ってきて「これも使っていいよ!」と言い放ち、帰ったとする。残されたあなたは唖然としたまま、その場に立ち尽くすかもしれない。「ふざけるな」と叫んで握りしめた拳を立ち去る私の後頭部に振るうかもしれない。しかし、仮にもし、あなたが笑顔で礼を言い、嬉々としてその部品を仲間に加えたのならば、あなたが組み立てているものは機械ではなく、生物と呼んでいい代物だと思う。

 

 まだ生物というものをほとんど知らなかった頃の私は、手を作るには手の遺伝子、心臓を作るには心臓の遺伝子、といったように「遺伝子がそれぞれの目的をもって」存在していると考えていた。いわゆる冒頭のオーダーメイドというやつである。だが現実というのは実に珍妙なるもので、生物の体は高度に規格化された部品から作られていた。つまり、1つの遺伝子がいくつもの目的を同時に担う「使い回し」が行われていたのである。ヒトの遺伝子を縦に並べて1つ選び、「これは何のための遺伝子ですか?」と聞けば「これは手と心臓と……で使われているTbx5という遺伝子です」という頭がごちゃごちゃになるような回答をされるのがほとんどなのである。

 これは1つの生物種にとどまる話ではない。例えば、ヒトに加えてヘビの遺伝子を縦に並べ「どれがヘビの姿になるための遺伝子ですか?」と聞かれたら、答える方は口をつぐむと思われる。何故ならそんなものはおそらくないであろうし、仮にあったとしても、似たような遺伝子がヒトの方にも見つかるからである。ヘビだけではなく、脊椎動物全般においてもこのようなことが言えるはずだ。おそらくこれを脊椎動物から拡張、つまり動物全般まで広げてもある程度は当てはまると思う。

 何が言いたいか。私が言いたいのは、つまり「オーダーメイドの遺伝子」なんてものは存在しないのだということである。もっと踏み込めば「遺伝子は目的を与えられて新たに作られるわけではない」ということを私は言いたいのである。冒頭のスマホの話を生物に置き換えてみよう。生物を遺伝子という観点で分解し、私がそこに新しい遺伝子を投げ込んだとしよう。するとあなたはそのパーツ(遺伝子)を生物の頭につけたり、背中につけたり、心臓に埋め込んだり、結局いらないと言って捨ててしまうかもしれない。それでいい。それが生物である。

 その逆もあり得る。あなたが生物を分解したところに私が忍び込んで、いくつかのパーツを盗んでいく。何も知らないあなたは生物をもう一度組み立てて違和感を覚えるが、組み立てた生物が動いているので良しとする。生物なんてそんなものである。挙げ句の果てには、季節や気温、その日の気分次第でパーツを付け替えても動いてしまうのである。

 

 機械は目的が存在して作られるものである。その目的のために完成図が存在し、その完成図のために各々のパーツが存在する。対して生物には目的が存在しない。目的が存在しないから完成図も存在しない。でも完成形は存在する。何故か。パーツが存在するからである。機械が「目的→完成図(→パーツ)」であるのに対し、生物は「パーツ→完成図」という逆の流れを汲む。言い換えると、機械は終点が初めに存在するのに対し、生物は始点が初めに存在するのである。

 全く別の分野でこの概念に名前をつけていた人がいる。その人の名はクロード・レヴィ=ストロース、かの有名なフランスの人類学者である。彼の著作の中には「ブリコラージュ(Bricolage)」という言葉が存在する。この言葉については皆に調べてもらうとして、私が言いたいのは「生物はブリコラージュによって作られている」ということなのである。

 

 生物と機械を構成するものはその観念からして全く”逆向き”をなしている。科学の発達した現代において、生物に目的を求める構造が当たり前のようにまかり通っている。しかし、その目的は初めに存在したものなどではなく、最後にとってつけたかのように貼り付けられたものに過ぎないのかもしれない。

 

 まあ、それはそれとして冒頭に戻る。

 もしも今、機械と呼ばれている存在から「オーダーメイド」の要素が消えたらどうだろう。それをより具体的に、例えば人型アンドロイドで生じたとしたら、我々が無意識に感じている「機械らしさ」というものを取り除けるのだろうか。規格品のネジを見て、そんなことを考えた。ただそれだけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の鋳型はかくありなむ

159年前の1859年11月24日はかの有名なダーウィン先生が『On the Origin of Species』を出版した日である。進化論の記念碑ともいえるこの本の題の"Origin"が単数形であることからわかるように、この本が主張したのは(ざっくり言うと)種というものが神によって創られた不変なものではなく、時間とともに変化しうるものであり、それ故地球上に蔓延る生命はみな一つの起源に由来する(進化系統樹の概念)のではないかというものである。

 

ともあれ過ぎたる2018年の11月24日、進化を専門とする私は何をしていたかというと、敬虔なるクリスチャンとともに麻雀を打っていたのであった。思想は反すれど、今は同じ卓を囲う仲間。配られる牌に一喜一憂していると、事情を知らない後輩があろうことかこんなことを聞く。「そういえば馬さんって何の研究してるんすか?」

私はため息をつきそうになりながらこう答えた。「動物に潜む神の鋳型を探す研究をしている」のだと......。

 

ダーウィンが俗に言う進化論を世に出す前の時代は進化という考え方が全くなかったか?そんなことはない。種が変化するという概念はジャン=バティスト・ラマルクが1809年に『動物哲学』の中で提唱している。しかし、そんな時代の中で進化論がはいそうですかと受け入れられるわけがない。現にあのガリレオ・ガリレイはひどい目にあっている。数々の解剖学的知見を残した大英博物館自然史分館の初代支部長であったリチャード・オーウェンも、動物学の父と称されるジョルジュ・キュビエも、ダーウィンらと同じ時代にも関わらず生涯を通じて反進化論を貫いた。なぜか。私が思うにそれは「当時の生物学における観点ではどうでもよかった」のだろう。つまり、本質的ではなかったのである。

 

上に挙げたリチャード・オーウェンが考えたもので最も有名だと思われるのが「原動物」である。動物の中にはあるパターンがあり、そのパターンにパーツを埋め込まれたものが今を生きる動物だと主張したのである。例を挙げるならば、「前肢」という脊椎動物におけるパターンには、ヒトならば「手」、鳥類ならば「翼」、魚ならば「胸びれ」がパーツとして埋め込まれているのである。動物に潜む根源的なパターン、動物の形態のイデアとして立ち現れてくる動物の姿を、オーウェンは「原動物」と呼んだのである。イメージとしては神様が動物の鋳型(原動物)をもとにせっせと動物を想像しているところを思い浮かべてくれればよい。当時、動物の形態からどう分類、一般化するかを考えていた彼らにとって、進化論で保障されるような論点は原型論(原動物があるとするような考え方)でも十分保障されており、進化論と原型論の違いである「種の起源は一つであるかどうか」は動物の形態が似ているという観点からは決着がつけられない問題だったのである。今の時代だからこそ、ゲノムからの情報(DNAの二重らせん構造がフランクリンらのデータによって示されたのは1953年)をもとに”目に見えない類似点”を探れるようになったからこそ進化論は普及したが、それがなければどちらが正しいか私はわからなかっただろう。

 

f:id:living_horse:20181129221349p:plain

Ideal typical vertebra、つまり「脊椎骨のイデア」である。オーウェンはここに描いた脊椎骨から肋骨や骨盤、はては頭蓋骨まで説明できるとした。

ちなみにオーウェンは「脊椎骨」によって脊椎動物の頭から尻尾までを説明できるとした。確かに、我々の首を含めそこから下は脊椎骨(頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎)を軸にして体が構成されているように見える。しかし頭は?頭蓋骨には脊椎に相当する部分があるのだろうか?オーウェンは「頭蓋骨も脊椎骨が変形したものだ」といった。かの有名なドイツの文豪であり、形態学にも通じていたゲーテもそういった。それが本当かどうかはあなたが勝手に考えてほしい。

 

ちなみにその日の麻雀は私の大勝利であった。神が私に微笑んでくれたのだろうか。実に皮肉なものである......。

f:id:living_horse:20181129223616p:plain

オタマジャクシの骨格。はたして頭蓋骨は椎骨の変形なのか......。



f:id:living_horse:20181129222436p:plain

カールスさん(1828)が書いた動物の原型。四肢まで原型に入ってます。すごいね。

 

 

参考文献:倉谷滋『分節幻想』、Richard Owen『On the Anatomy of Vertebrates』、etc(記事自体はわかりやすさ重視で書いているため、正確を多少欠いた表現もあります。問題点があれば私まで気軽にどうぞ)

 

井の中の蛙、大海を目指す

つい先日、飲み会の席で大御所の先生からこんなことを言われた。

 

「馬君はねえ、勉強しすぎだよ。研究者なんてのは勉強じゃなくて実験をしていればなんとかなっちゃうもんなんだ」

 

あっけらかんとして放たれたその言葉に、私の口からは「そうですね」という牙の一つもない言葉がこぼれた。しかし蒔かれた違和感の種はすでに帰り道で花を咲かせ、私は明確な結論を手にしていた。「それは違うだろ」と......

 

生物の発生過程に潜む一般法則というものに魅せられてからというものの、私は何かに取り憑かれたように本や論文を読み漁っている(らしい)。それこそ程度の差というものもあれど、私は自分が思い描く研究者というものを体現しているだけであり、この過程を苦に思ったことは思い返せる限りはない。しかし勉強が「足りない」と思うことはあれど「過剰」だと感じたことは一度もない。

 

それでも先の発言が妙にどこかで引っかかる。少なくとも私は物怖じするタイプの人間ではなく、大御所の先生というのも朗らかで優しい人である。それなのに私はどうしてあの場で反論しなかったのか。そんな漠然とした靄を心に抱えたまま、昔読んでいたコラムや記事を読み返しているとある文章が目に留まった。

 

本棚には、コピーでそろえた論文集と、専門書と、教科書と、形態学に関係のありそうなサブカルチャー系の思想書(私と1つしか歳の違わない浅田彰が、ニューアカデミズムの旗手として一世を風靡していた頃だ)など、ぎゅうぎゅうに詰まっている。一方で私はまだ論文をただの1本も書いてはいない。これでは私は、提供された情報の享受者にすぎない。何かがとてつもなくアンバランスだ。この情報のネットワークの中で、私という「個」は存在しないにも等しい

 引用元:倉谷滋「インターネット-情報のパトス

 

これは進化形態学を牽引する倉谷氏のコラムであるが、私の今の状況はまさにこれだった。私はまだ論文を1本も出していない。延々と知識を空で羅列できても、私はまだ自分の研究成果を発信していないのである。

 

これは困った。需要と供給が釣り合っていない。成果をまとめるにも、少なくともあと半年から1年はかかる。それまでこのもやもやとした感情のまま過ごさねばならないのかと思うとぞっとする。そして私はすぐにこのブログを書き始めた......という次第である。

 

とりあえず、このブログでは私の専門に関することを書いてみようと思う。あくまで気晴らしのため、2ヶ月に1回ぐらいを目安に更新しようと思う。やるからには本気で、しかし情報に間違いがある可能性もあることをご了承いただきたい(そういった場合は指摘してその根拠の論文やらなんやらを教えてもらえると一層の励みになります)。

 

ちなみに私の専門は進化発生学である。どんな学問かというと「生き物が1細胞(受精卵)から赤ちゃんみたいな形を作るけど、その形を作る過程から進化を考えよう!」みたいなもんである。例を挙げれば、ヒトデやウニ、ナマコはみな棘皮動物というカテゴリーに分類されている。棘皮動物は五放射相称という形の特徴を有しているが、発生学者からしてみれば彼らは赤ちゃんのある時期までは(雑に言えば)めちゃくちゃ似た形をしているのである。赤ちゃんのある時期までは似ているのに、ある段階から少しずつ形に差異が生じていき、最後にはまったく別の形をしている。他にもみなさんご存知ダーウィン先生が愛好していたフジツボ(海の岩に張り付いているあれ)はまるで貝の仲間みたいな形をしているが、あれはエビやカニと同じ甲殻類である(気になるならばフジツボ、ノープリウス幼生で検索するとよい)。

 

博覧強記たる倉谷氏のコラムに比べたら、私のような学生が書くブログなど読むに堪えない代物かもしれないが、せっかくインターネットがある時代に生まれたのであれば使わにゃ損というものである。兎にも角にも、これから書いたもので一人でも同志が増えれば儲けものである。