井の中の蛙、大海を目指す

つい先日、飲み会の席で大御所の先生からこんなことを言われた。

 

「馬君はねえ、勉強しすぎだよ。研究者なんてのは勉強じゃなくて実験をしていればなんとかなっちゃうもんなんだ」

 

あっけらかんとして放たれたその言葉に、私の口からは「そうですね」という牙の一つもない言葉がこぼれた。しかし蒔かれた違和感の種はすでに帰り道で花を咲かせ、私は明確な結論を手にしていた。「それは違うだろ」と......

 

生物の発生過程に潜む一般法則というものに魅せられてからというものの、私は何かに取り憑かれたように本や論文を読み漁っている(らしい)。それこそ程度の差というものもあれど、私は自分が思い描く研究者というものを体現しているだけであり、この過程を苦に思ったことは思い返せる限りはない。しかし勉強が「足りない」と思うことはあれど「過剰」だと感じたことは一度もない。

 

それでも先の発言が妙にどこかで引っかかる。少なくとも私は物怖じするタイプの人間ではなく、大御所の先生というのも朗らかで優しい人である。それなのに私はどうしてあの場で反論しなかったのか。そんな漠然とした靄を心に抱えたまま、昔読んでいたコラムや記事を読み返しているとある文章が目に留まった。

 

本棚には、コピーでそろえた論文集と、専門書と、教科書と、形態学に関係のありそうなサブカルチャー系の思想書(私と1つしか歳の違わない浅田彰が、ニューアカデミズムの旗手として一世を風靡していた頃だ)など、ぎゅうぎゅうに詰まっている。一方で私はまだ論文をただの1本も書いてはいない。これでは私は、提供された情報の享受者にすぎない。何かがとてつもなくアンバランスだ。この情報のネットワークの中で、私という「個」は存在しないにも等しい

 引用元:倉谷滋「インターネット-情報のパトス

 

これは進化形態学を牽引する倉谷氏のコラムであるが、私の今の状況はまさにこれだった。私はまだ論文を1本も出していない。延々と知識を空で羅列できても、私はまだ自分の研究成果を発信していないのである。

 

これは困った。需要と供給が釣り合っていない。成果をまとめるにも、少なくともあと半年から1年はかかる。それまでこのもやもやとした感情のまま過ごさねばならないのかと思うとぞっとする。そして私はすぐにこのブログを書き始めた......という次第である。

 

とりあえず、このブログでは私の専門に関することを書いてみようと思う。あくまで気晴らしのため、2ヶ月に1回ぐらいを目安に更新しようと思う。やるからには本気で、しかし情報に間違いがある可能性もあることをご了承いただきたい(そういった場合は指摘してその根拠の論文やらなんやらを教えてもらえると一層の励みになります)。

 

ちなみに私の専門は進化発生学である。どんな学問かというと「生き物が1細胞(受精卵)から赤ちゃんみたいな形を作るけど、その形を作る過程から進化を考えよう!」みたいなもんである。例を挙げれば、ヒトデやウニ、ナマコはみな棘皮動物というカテゴリーに分類されている。棘皮動物は五放射相称という形の特徴を有しているが、発生学者からしてみれば彼らは赤ちゃんのある時期までは(雑に言えば)めちゃくちゃ似た形をしているのである。赤ちゃんのある時期までは似ているのに、ある段階から少しずつ形に差異が生じていき、最後にはまったく別の形をしている。他にもみなさんご存知ダーウィン先生が愛好していたフジツボ(海の岩に張り付いているあれ)はまるで貝の仲間みたいな形をしているが、あれはエビやカニと同じ甲殻類である(気になるならばフジツボ、ノープリウス幼生で検索するとよい)。

 

博覧強記たる倉谷氏のコラムに比べたら、私のような学生が書くブログなど読むに堪えない代物かもしれないが、せっかくインターネットがある時代に生まれたのであれば使わにゃ損というものである。兎にも角にも、これから書いたもので一人でも同志が増えれば儲けものである。